ハヤシライフ。なんとも人を食ったような名前である。この世にもオモシロ可笑しいバカテクバンドは、世界中のエンターテイメント関係者を路頭に迷わせたコロナパンデミックの渦中に誕生した。
2021年だったと思うが、愁人から「師匠、今自分のソロでこんなことやってます」と音源が届いた。鍵盤や打楽器とラップで即興演奏をしている数曲のデモだったが、それが非常に面白かった。コロナのせいでバンドも何も出来なくなって、でも自分で何かやりたくて、フリースタイルラップで楽器の達者な友達とフリーセッションを始めた、というところから愁人ワークスと名乗り始めたようだ。
その楽器の達者な友達が天才「OKN」である。この2人を軸に、徐々にバンドの形に肉付けされていった。
そもそも愁人とはその10年程前の2010年か2011年に知り合ったと思う。当時2人組の弾き語りユニットをやっていて、いきなりTwitterで「僕らをプロデュースしてください」とメンションツイートを飛ばしてきた。なんで?と聞くと、「有名人だからです!」なんてバカなんだ。面白いなあ。
一度会ってみようと思い、新宿LOFTでライブの日、リハーサルが終わって本番までの空き時間に大阪から出てきた二人に喫茶店で話を聞いた。田舎の売れないホストみたいな格好のこいつらは、喫茶店のソファから身を乗り出して必死に自分達をアピールする。おもしれーなー。じゃあとりあえず、デモをレコーディングしてあげるからさ、レクチャー出来ることはしてあげるから、まあ、一回録ってみようよ、となり、プロデュースするというよりデモレコーディングに趣味で付き合ってあげるみたいな感じになって、なんだかんだ言って割と何回もレコーディングして、15曲くらい残したんじゃないだろうか。
愁人の歌はまるで怪獣が噛み付くようで、聴くものの心に刺さるものがあった。どこかタイミングが掴めれば人気がでるんじゃないかと思っていたがずっと集客に苦労していたようで、そのうち2人弾き語りスタイルに見切りをつけてバンドになった。バンドになってからちょっと人気が出てきてライブハウスも一杯にできるようになったようで、よかったねーと思う反面なんか普通のバンドになっちゃったなーと残念にも思っていた。
そんなバンドの活動もコロナパンデミックにより動きが止まってしまい、何か自分がやれることを、と本稿の書き出しに戻る。
最初にこのフリーセッションのデモを聞いた時、もの凄く新鮮だった。常々これからのロックバンドにはジャズとヒップホップの要素が不可欠だと思っている私に、まさにそんなサウンドをあの怪獣愁人が投げてくるとは思いもよらず、非常にワクワクしながら時々送られてくる経過報告のようなデモを楽しみにしている中で、ギターに「ずん」、ベースに「新田万博」が入り、ドラムだけサポートメンバーながらもバンドの形になり、全員かなりのテクニックで更にワクワクさせられた。何故か全員で着ていた赤いadidasのジャージ以外は(笑)。
最後にサポートメンバーだった「にっと」が正式メンバーになったのは、一回目のレコーディングが終わってパイロットシングルを作ろうかなんて話してた2023年の夏だったと思う。
演奏技術だけでなく作編曲の辣腕OKNはJAZZ寄りのR&Bテイストの要。
新田万博の時にスラップも炸裂するベースはファンク要素の火種。
素の姿でギターヒーロー然としているずんが醸し出すロックテイスト。
にっとのドラムの万能感。
ここに愁人の落語まで取り込んだラップが絡み、まったく新しい音楽の扉がギーッと音を立てて開いた。Hip hopを内包した新しいCity pop、即ちCITY HOP。
バンドメンバーというのは同じ運命の舟に乗る仲間である。大袈裟ではなくこれホント。同じ運命を背負ってなければすぐに潰れるし、潰れなくても成功することはない。そんな奇跡のような人の集まりに、たまたま全員バカテクの奴らが揃うとか、しかも普段からゲスでエロでしょうもない話ばかりして笑い転げてるダチっぷりとか、滅多に無い。滅多にないんだってば。大事にするんだよ。
愁人との出会いから14年、よくぞようやくこの最高のサウンドに辿り着いてくれたという私の万感の思いも込めて、デラックスジャンボジャケット仕様にて作り上げたデビューアルバム、CITY HOP STREET。多くのリスナーの皆様のライフをハヤシたてる一枚になってくれますように、願いを込めまして、ここにライナーノーツを結ぶ次第です。
石田ショーキチ拝
この世紀の大名盤はこちらにて。
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